あなたは性善説と性悪説のどちらですか?
私は性善説、と言いたい所なのですが、今の世の中「どれだけ他人からの突っ込みどころをなくすか」が重要で、「もしかしたら人に○○されてしまうかもしれない」という最悪の場合の想定を考えていないと誰かに足元を救われることも多々あります。
そんな世の中でなぜ性格よく生きる方が得なのかについて書きたいと思います。
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徳を積むとは
徳とは、「道をさとった立派な行為。善い行いをする性格。身についた品性。(広辞苑より)」のことです。
そして徳を積むとは、人知れず善い行いをしながら生きていれば天がそれを見て幸運を授けてくれる、という仏教の教えの一つです。
善い行いを積み重ねて来世は仏の世界(極楽浄土とも言う)に行かれる事を願うことです。
まぁ、私たちが普段「徳を積む」は人知らずいいことを積み重ねていれば結局自分に返ってくる、くらいの感覚で使っているのではないでしょうか。
人は当たり前のことを忘れる
人は他人に感謝する気持ちやご飯を食べる前にいただきますとなぜ言うのか、のようなかなり当たり前の気持ちを忘れてしまいがちです。
仏教やキリスト教など様々な宗教が世の中にはありますが、人や食事ができることへの感謝する根本的な部分は同じです。
そんな当たり前の教えを説いてほしいのは、それだけ人が当たり前の感謝の気持ちを何回も何回も言い聞かせないと忘れるからです。
占いにハマるのも同じです。占いも大体当たり前のことを言われます。
人は他人に対して起きた事象に対しては当たり前のことを当たり前に捉えることができますが、自分に対しては違います。
だから「当たり前のこと」を言われるだけでもとても「気付かされた」ように感じられるのです。
計算もモテテクも気遣い
また自分の評価を上げたり、モテるために計算して人に親切にしている行動に対して批判的な人もいますが、私はそれも含めて人と人が気持ちよく生活する上での気遣いだと思います。
例えば、飲み会で食事を取り分けたり、キレの良い相槌を打つなど男女がモテるために計算でやっている所謂「モテテク」や「飲み会のセオリー」だって、それで相手の気持ちが気持ちよくなった上に本人の評価も上がるなら、誰も不快になってないですよね。
計算的にやってることも含めた行動全てで自分に関わる人の機嫌や自分の1日の気持ちも変わるのです。
だから登場人物で不快に思ってる人が0ならそれは「気遣い」です。
むしろ、自分が不機嫌な態度や良くない行いをした時に周りの人の気持ちも連帯的に悪くなることをちゃんと考えて行動するべきです。
人に親切にすると自分に返ってくる
私はよく銭湯に行きますが、銭湯は年配の常連さんが多く、若い人に厳しいことを言ってくることもあります。
その場合、注意された方の気分が悪いのは当たり前ですが、注意した方も気分は良くありません。
それを防ぐにはマナーに従うのは当たり前として、率先して困っている人がいたら声をかけて助けたり、人と目が合った時にニコニコするなどちょっとしたことでいいのです。
人は他人に優しくされると必ず相手にも優しくしたくなります。
結果、全員が気分良く帰れるのです。
徳を積むマイルールを決める
例えば私は、エレベーターのドア側に乗ったらかなり急いでない限り必ず最後まで乗ってドアを開ける係になるとか、マンションの共有部分でゴミを見つけたら必ず拾うなど、してもらったら気持ちいいけど、できないと地味に人を不快にさせてしまうことを自分ができるようにルーティンにしています。
徳を積むマイルールを決めておくとルーティンでいいことができるのでオススメです。
感謝することを習慣にする
往年から言われている、壊れるほど愛しても1/3も伝わらず、純情な感情は空回りするように(©︎SIAM SHADE)感謝の気持ちも伝えないと相手に1/3も伝わりません。
感謝を感じたらちゃんと表現しましょう。
小手先の感謝という意味ではなく、感謝を感じて表現するのも技術です。
前述した通り、人と人の生活はちょっとした気遣いが大事ですし、自分が周りに悪い態度を取ると周りの感情にも連鎖します。
だから、悪いことが起きた時は自分が人に対して感謝の気持ちが足りなかったからだと私は思います。
成功体験から学ぶものも多いですが、失敗や絶望から学ぶものもまた大きいです。
でも、大失敗する前に感謝することを習慣にしましょう。
まとめ
✔️ 人に親切にすると自分に返ってくる!
✔️ 自分の不機嫌は他人の不機嫌にも連動する!
✔️ 感謝するのを習慣にしよう!
✔️ 性格良く生きよう!
孟子「性善説」
告子という人が孟子にこう言いました。
引用:http://chugokugo-script.net/koji/seizensetsu.html
「人の本性というものは渦巻く流れのようなものだ。水のはけ口を東側に作れば水は東に流れ、西側に作れば西に流れる。人の本性に善不善の区別がないのは、水が東西を区別せず流れるようなものである」。
すると孟子がこれに反駁し「水は確かに東西を区別せず流れるが、上下の区別なく流れることはない。人の本性が善であることは、水が低いほうに流れるようなものである。本性が善でない人間はいないし、低いほうに流れない水もない。
今、水を手で打ってはねさせてみれば、人の額を飛び越えさせることもできよう。水をせき止めれば、激しい勢いで山の上の方に逆流することもあるだろう。
しかしそれが、どうして水の本性だといえようか。外から加える勢いがそうさせているだけだ。人が悪事をするのも、外からの勢いに影響されてそうするのだ」と言うのでした。
NANA #102
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